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2018年9月10日
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「ビジョンの感覚が自分の感覚と近くて共感」し、ジョインを決めたデザイン部 部長/Dgt People 14
こんにちは。広報の讃岐です。
「Dgt People」は、DeNA Games Tokyo(DGT)で働くメンバーをカジュアルに紹介しています。DGTは、どんな会社でどんな人が働いているのか、インタビューを通して雰囲気を感じ取っていただけたら嬉しいです。
「Dgt People」の14人目は、デザイン部 部長の曽我雄二です。
ーー大学を卒業されてから、どんなお仕事をされていたのですか?
まず自分は社会人になってないです(笑)そのころは漫画家になりたくて、アルバイトや漫画家のアシスタントをしながら、イラストを描いたり漫画を応募していました。とはいってもそんなに成果は出てなくて。バイトして、疲れて、寝て、みたいな生活が長かったですね(笑)
そんな生活が、かれこれ4年近く過ぎ去ろうとしたときのことなんです。
ウチの父の話なのですが、父は昔、写真家になりたくて、親に27歳まで待ってもらったらしいんです。でも結局、写真家になれなくて、他の仕事を始めた経緯があったんですね。なので父親から「お前も27歳までは好きにさせてやる、27歳になったら働け」って言われてて。
で、僕も27歳になって、今さらどこで働こうかなって思ったとき、絵を描いていたということもあって、ゲーム会社に入社しました。
ーー大学は美術系だったのですか?
いわゆる芸術系の大学ではなく、一般的な四年制大学の芸術学部です。
ーーなぜ漫画家を目指されていたのですか?
もともと漫画がすごい好きだったんです。小学生のときから、「将来は絶対漫画家になる」って思って、ノートに漫画を描いたり、好きな漫画を模写してました。
ーー小さいころからの夢を諦めるのは大きな決断だったのではないでしょうか?
「漫画で食べていきたいか」と考えたときに、やれたらいいなとは思ったんです。だけど、ずっと1人で書き続けて、成果を出していくのって、難しい世界だなと思って。
やっぱりいろんな人とコミュニケーションをとって、いろんな才能を組み合わせて、何かを作り出す方が楽しいのかなって思ったときがあったんです。漫画をずっと1人で描いて、報われないみたいなことを繰り返してると、徐々にそういう気持ちが大きくなってきて。
みんなで何かを作ってみたいという気持ちと、27歳になって働かなきゃってタイミングが合致したって感じですね。
ーー漫画家は基本的に個人の作業なんですね!
絵描きや漫画家の友達はいますけど、「一緒に何かを作ろう」という話にはならないんです。基本的に自分の作品を作りたいわけなんですよ。漫画家のアシスタントをやってても、その作品は先生のもので、自分の作品ではないんです。
僕は、自分だけの作品である必要はないのですが、みんなの作品という立ち位置でないと、後々、作っていく気持ちの維持ができないなと思ってて。ゲーム開発のように、みんなの才能を組み合わせて生まれたものがいいものになれば、やりがいになるかなと考えてます。
ーー「みんなでモノ作りができる」という観点はゲーム会社以外でも実現できると思いますが、なぜゲーム会社を選んだのでしょうか?
そうですね、ゲーム会社以外に広告会社も考えたんです。もし広告を作るなら、デザイナーではなくコピーライターだったんです(笑)大学在学中から教授にコピーのセンスを褒めていただいてて、やるならそっちかなって思ってました。
ただ、コピーライターの仕事の募集はそんなになくて。当時、福岡に住んでいたので、福岡での募集を探しても、大手広告代理店や印刷会社ぐらいしかなかったんです。東京に行って、いきなりコピーライターを目指すのも想像ができなかったんですよね。
もし県外に行くのであれば人を頼ろうって思ってはいました。当時、岐阜に大学の先輩が働いてるゲーム会社があって。先輩に就職の話をしたら、話くらいならできるよって、言ってもらって。それで話を聞きに行って、この会社に入社することになりました。なので、ゲーム業界に飛び込んだきっかけですね。
ーー福岡から飛び出して岐阜へ行かれたんですね!県外へ行くのは不安ではなかったですか?
生まれは富山なので、いざとなったら親戚のとこにも行けるし、便利だなーと思ってました(笑)
ーーこの会社ではどんなことをされていたのですか?
最初は背景の絵を描きながら、外部パートナーさんの進捗管理をしていました。そのうち3Dデザイナーが足りなくなったのでやり始めて、っていう感じで、色々兼業でやってました。
ーー絵を描くといっても、これまでは漫画だったので手書きが中心だったと思います。どうやってデジタルツールの使い方を学んだのですか?
大学時代、課題の提出をするときにPCを使っていたので、家にPCで絵を描く環境はあったんです。確かに漫画は紙とGペンで描いていたので、ゲーム会社では別のスキル、別の画材で描く、という切り分けは、自分の中ではできていたんです。なのでそこは苦労はなかったですね。
ただ、いままではいわゆる2Dだったのですが、急に3Dもって言われたときは、自分でいいんですか?って感じでした。働きながら新しい知識が身に付くならラッキー、ぐらいに考えてました(笑)
ーーこの会社にはどれくらい在籍されていたのですか?
この会社では3年半ほど働きました。会社で作っているゲームにも満足していました。ですが、ある程度スキルを身に付けられたかなと思ったので、違う会社で働いてみたいと思ったんです。
そのとき、東京の会社を受けることも考えましたが、福岡でちょうど「GFF(GAME FACTORY’S FRIENDSHIP)」という団体が立ち上がって、「産・学・官」が連携してゲーム人材を育てていきましょうといった機運が高まってました。
福岡ってゲーム熱が高いんだな、福岡で食べていけるな、福岡に住んでる親の面倒も見られるなと思って、福岡のゲーム会社に転職を決めました。
ーー2社目ではどんなことしていたのですか?
この会社には7年間、在籍していました。ゲーム業界の中で一番長いのは、今のところこの会社です。この会社は業務量がかなり辛かったですね(笑)独身のときはなんとも思ってなかったのですが、結婚して子どもが生まれたときに、しんどいなって。
仕事としては、3Dの背景をひたすら作っていました。3D背景のサブリーダーもしていたのですが、クオリティの深堀りはできても業務の幅を感じにくい状態でしたね。
ちょうどそのころ、アプリゲームが流行り出してて、「次はこれがくるんだろうな」って空気は社内のみんなも感じていました。そのとき自分は30代後半で、アプリゲームをビジネスとして成り立たせるために、必要なことを考えていくステップを踏みたい、と思っていたんです。
福岡でアプリゲームに強い会社はないかなと探していて出会ったのが、次に転職をしたゲーム会社でした。
ーー3社目でも3Dを担当されていたのですか?
と思ったんですけど、違うんですよコレが(笑)会社が「3Dの仕事を持ってくる」と言ってくれたので、3Dデザイナーとして入社したんですけど、3Dの仕事が来なかったんですよ……。
ーーえっ!それはなぜなのですか?
大人の事情で(笑)
で、上司から「アートディレクターもできるよね。ポートフォリオ見たんだけどできそうだしさ」って言われ、カードゲームのアートディレクターをやってました。
3Dに固執するより、アートディレクターとしてゲーム全体を見たり、マネジメントにも挑戦したいという想いで転職してるので、違和感はなかったですね。ただ、いきなりこんな展開になるんだ、って感じではありましたけど(笑)
この会社では、ゲームの価値を高める手法や、どこで価値を作るのかという意識付けをかなり勉強させていただきました。こういう視点はいままでなかったので、感謝してます。
ちなみに働き方は、2社目よりも大変になりました(笑)2社目はひたすらリリースに向けて開発するって感じだったのですが、3社目はマネジメントで業務量が増えてたんです。タスクの負荷は高かったんですけど、人生のタイミングとしてみれば、それぞれやりがいはありました。ですので、僕は納得感はありました。
まあ妻は納得してなかったですけど(笑)転職したら早く帰れるって聞いたけど、って(笑)
ーー4社目に転職された経緯を教えていただけますか?
3社目に在籍しているとき、4社目で働いている方が出向されてたんですね。その人からスカウトされたんですけど、このとき特には具体化もせず立ち消えになりました。
その会社は東京に本社のある会社で、福岡で拠点を立ち上げたかったようなのですが、青写真がよくわからなかったというのもありました。
その数ヵ月後、3社目はある事情で社内の人員整理をするって方針になったんです。僕は当時、イラスト部門のマネージャーと1タイトルのアートディレクターを兼務していました。ですが、事前の相談もなく、部門の子が何人も切られたんです。会社に、「人事で勝手に決めて、所属部署の上長である自分に事前開示することもできなかったのか」、と聞いたら、それをしない会社である、という答えが返ってきて。
で、諸般の事情があるのでかなり端折るのですが、その後、4社目からまたお話をもらって。拠点の立ち上げに際して、アート部門を全部任せたいって言ってもらいました。そのとき「3社目を辞めさせられた子も一緒に働こう」って言ってくれましたし、面白そうだなと思って、お誘いに乗ることにしました。
3社目は、もしかすると次は自分が急に切られるかもしれないって思っちゃって。そういうのもあって転職に振り切りました。
ーー4社目はこれまで経験されていないことに挑戦できそうですね!
この会社には2年半いました。拠点の立ち上げからなので、人員管理系の業務がかなり増えました。事業戦略の設計や給与テーブルも作りましたね。そのとき、福岡で別会社を立ち上げた方も入社されて、この方と2人で、福岡の拠点を大きくしていこう、と話していました。
最初は行政から借りられるオフィスに1年近くいました。手狭になってきたんで新しくオフィスを借りたのですが、このオフィスの内装のディレクションもやってました。戦略に関しては、東京本社の本業は福岡では流行らないと思い、注力事業を変えました。それによって、本社で使ってるロゴは福岡の事業に合わないので、ロゴも刷新しました。
ですが、ここの会社で働いてるとき、脳梗塞で倒れちゃったんです。労働環境はいままでの会社と比べ、はるかに改善していました。徹夜もないですし22時までには帰れる生活だったんです。ただ、今までの無理がたたったのと、業務範囲が広がったので責任も大きくなり、プレッシャーもあったのか……。で、右腕に麻痺が残って動かなくなり、「デザイナーとして終わった」って思ったんです。
っていうこともあって、リハビリに専念したかったのですが、東京本社が福岡の事業を真似し始めたんですけどうまくいかなかったんです。で、なんとかしてくれって言われて、退院した1ヵ月後に、東京へ3ヵ月ぐらい出張してるんです。リハビリも終わってないのに(笑)
数週間後、肩は上がらないものの、動くようにはなって。今でも肩を使ってストロークを引きたくてもうまくできないので、だましだまし描いてはいるんですけどね。
それで、「この会社は大丈夫かな」って思っちゃって。体調に関して、僕自身、出張当初は「大丈夫」って思ってたんですけど、徐々にきつくなり始めてて、コレはまずいなと。
体調不良に加えてそのとき思ったのは、東京の情報量の多さや可能性の広さでした。これまでのキャリアで、1度も東京にきていないことへのデメリットみたいなものに気がついて。もし次の転職を考えたとしても、福岡の他のゲーム会社でも働いているので、転職したいと思える会社が見当たらなかったんです。
東京は働く上でありだなと思って、妻に相談したんです。妻も「東京だったら会社も多いしいろんな働き方ができるだろうから」、って後押ししてくれて。妻もゲーム会社で働いていたので「もしかしたら自分も働けるかもしれないし」ってことで、東京行きを決断しました。
ーー東京には多くのゲーム会社があります。どんな風に転職活動をされたのですか?
そうですね、求人サイトや転職エージェントのサービスを利用して応募することも考えましたが、まずは知ってる人を頼って情報収集しました。で、前職の同僚などに「東京のゲーム会社ってどんな感じなんですか?」って連絡をして、話を聞いてましたね。
ーーその中でなぜDeNA Games Tokyo(DGT)を選んだのですか?
他にも何社か候補にはあったんですけど、最終的に決め手となったのは、人でしたね。
面接で話したのは杓子定規的な内容だったと思います。その後、DGTのメンバーと食事に行って、ゲーム運営の未来や会社経営に関してたくさん話をしたんです。そのビジョンの感覚が、自分が持ってる感覚に近くて、そこに共感したというのはありますね。
同じことを考えてる人がいたとしても、「こういう言い方でこういう説明ができる人が上にいるんだ」ってのは決め手になりました。
ーー今、DGTで担当されているのはどんなことですか?
アプリタイトルのモデルチームのマネジメントと、デザイン部のマネージャーなので部の人員管理をやってます。
ーーメンバーをマネジメントする上で大切にしてることはどんなことですか?
そのメンバー個人個人のことを見ながら、メンバー同士を掛け算したときに、どういう価値(能力)を発揮できるのかを考えます。反対に掛け算をしてマイナスになってしまいそうな部分は注意をします。
ーーどうやって価値(能力)を見極めているのですか?
コミュニケーションの回数を増やしたり、今何を作っているかを把握するってことですかね。今、DGTの中では仕組み化されていないので、その仕組みを作ろうかと考えています。
例えばですが、前職では週報を書いてもらっていました。週報には1つルールがあって、「この週でいい出来だと思った絵を3枚貼る」でした。メンバーに絵を貼ってもらって、何をやっててどう思ったかを書いてもらい、それを全てチェックし、レビューもしていました。そのレビューのときに、気になるところは深掘りして、その人の能力を引き上げていく、という方法です。
ーー1人ひとりの絵をレビューしていくのは大変じゃないですか?
大変かどうかより、単純にその人の能力や価値が上がると思ったからやっていました。その人自身もそうですし、その人の能力が上がれば、携わってるゲームの価値も上がると思ってます。
ーー人を大切にしたマネジメントをされていように感じます
うーん、自覚はないですね(笑)本人に伸びる素地があって、伸ばしたいという想いがある。僕も伸ばしてあげたいという想いがある。ここも掛け算になると思います。
本人の伸ばしたいところが、会社に対してバリューになるなと判断できたら、育成に力を注ぐ価値が出るな、と思うイメージです。
ーーDGTはどんな会社だと感じていますか?
最初は「DeNAの子会社」っていうイメージでした。ゲームが好きというより、ビジネス的に考えてる方が多いのかなと思ってました。ですが、思った以上に、泥臭くゲームに向き合って、プレイヤーの期待にコミットしようと人たちの集団だなと思って。そこは嬉しかったですね!
スマートなやり方を考えそうなイメージだったのですが、泥臭いこともちゃんとやろうよ、と言える会社だと思います。それに加え、DeNAの理念やビジネス的な視座をちゃんと持っている。ゲームとビジネス、両軸を持ってるので、価値の高い会社だなと思います。
ーーお休みの日のはどんな風に過ごされていますか?
平日は妻も働いているので、午前中はひたすら家事をやります。掃除して、洗濯して、朝食を作ってますね。休みの日の朝食は、基本的に僕が作ります。夕食はたまーに作るぐらいですが。午後は近くのショッピングモールに家族でお出かけって感じですね。
あと、休みの日ではないのですが、平日、デッサン教室に通ってます。絵を見る側の人間って、常に美的感覚を持っておく必要があると思ってます。常日頃の観察や勉強ということも必要ですが、じっくりと絵とモチーフに向き合う時間を定期的に確保するのってすごく大事で、その観点でデッサンを取り入れてます。
確かに「いいものを見て感性を養う」ってのも大切だとは思いますが、「いいものを見ているフリをしている」ってことに陥りがちなんですね。そのとき、どこを見ていいって思ったか、何を出していけばよくなるのか、って、観察と実際のアウトプットの乖離がちゃんと埋まってるかどうかというのを訓練するのに、デッサンって適切なんですよね。なので、これはずっとやってこうと思ってます。
ーーデッサンはいつからやってるのですか?
昔からやってはいたのですが、再開したのは、社会人になって福岡に戻ったころからですね。
ーー最近はどんなゲームをしていますか?
今さらですが、PS4の『アンチャーテッド 海賊王と最後の秘宝』をやってます。あとは妻がやってる『Detroit: Become Human(デトロイト ビカム ヒューマン)』を横から見ながら、ああだこうだ言ってますね(笑)子どもが『Nintendo Switch(ニンテンドースイッチ)』をよくやるようになって、『オーバークック』と『マリオカート8 デラックス』を一緒にやってますね。
通勤のときにモバイルゲームを楽しんでます。最近は『世紀末デイズ』や『ONE PIECE サウザンドストーム』をやってますね。
ーー僕も『世紀末デイズ』やってます!早く新しいストーリーが開放されて欲しいですね。ありがとうございました!
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